代表より
考動力研究会に興味をお持ちいただきありがとうございます。
ここでは、私、代表の赤坂がどんな想いでこの事業を始めたか
というようなことをつらつらと語っております。
・国語のテストへの怒り
・家庭教師という仕事を通じて
・「考動力研究会」という名前
国語のテストへの怒り
僕が学校教育というものに興味を持ちだしたきっかけは、
大学受験の時期に、国語の問題に対して感じていた「怒り」でした。
いや、学校の国語のテストに対して怒っていたのは
思えばそのずっと前 ― おそらくは小学生の頃からでした。
テストの答案が返ってくる度に先生のところへ行って採点に文句をつけ、
クラスメイトからは「あいつ、またかよ」という目で見られていました
(というか実際に「またかよ」と言われてました...)。
そんな反骨的な不満が、大学受験を期に爆発したんだと思います。
例えば、全国の高校生が受けるセンター試験の過去問で、
「声をもらした」の意味として正しいものを選ぶ問題の正解が、
「小さく叫んだ」だったりして、
「どんな叫び方だよ!!」と、一人で怒っていたのを思い出します。
当時、「若気の至りは若いうちに」が口ぐせだった僕は、
有名な国語の参考書を書いている先生のいる予備校のWebページへ行き、
そこのBBSに、「国語のテストは必要だと思いますか?」という
トピックを立てるという、我ながらアッパレな暴挙に出ました。
「完全に客観的な読みなどというものはありえない」という、
若さ全開の理論を展開するこのよそ者に対し、
多くの参加者は、温かく、大人な態度で話を聞いてくれたのですが、
そのBBSの管理人だけは、「お前は受験から逃げてるだけだ」
「一刻も早く地に足つけて勉強しろ」と、全くとりあってくれませんでした。
僕はそれが相当に悔しく、晴れて志望の大学から合格通知を受け取ると、
真っ先にそのBBSに行って、
「現代文の試験が全国でもトップクラスに難しいと言われる(誇張気味ですが…)
学部の入試に合格しましたが、私の気持ちに変わりはありません」
と、意気込んで書いてやったのですが、
数時間後には、僕の立てたトピックが丸ごと削除されていました(汗)
これが大人と子どもの力の差かと思い、相当泣きそうになりましたが、
泣くことすら悔しくて、気にしないように努めました。
ただ、大学に合格してこのことを忘れてしまっては負けだと思い、
将来的に何かアクションを起こしたいという思いは持っていました。
家庭教師という仕事を通じて
家庭教師という仕事に興味を持ったのも、大学に入る前でした。
大学に行くことに強い意義を見出せなかった僕は、
とりあえず「大学のブランドを使って家庭教師のアルバイトで稼いでやろう」
というのを、受験勉強への動機付けとしていました。
大学入学後、実際に家庭教師として働いてみて、
それほど稼げる仕事ではないなということはわかったのですが、
それ以上に、生徒への指導を通じて学ぶことの多さに魅力を感じ、
結局大学の4年間、ほとんど常に生徒を受け持っていました。
しかし、家庭教師としての仕事そのものよりも、
この業界の実態に対して、驚きの連続でした。
「基本給+能力給」という文句に誘われて登録した派遣会社で、
働けど働けど一向に能力給がつかず、
よっぽど劇的に生徒の成績を上げないとダメなんだなーと思っていたら、
実は能力給がついている教師はほとんどゼロだったと、
その制度がなくなるときになって判明したり。
家庭に派遣されるときに、
「今回のご家庭は、将来学校の教師を目指している人を希望しているので、
そういうことにしておいてください。」と言われたり…。
他にも、教師として登録するときに
なぜかクレジットカードの契約をさせられたり、
採用試験なんてしないで登録できた会社が、
「厳選された家庭教師」と宣伝していたり、
指導時間中に平気で会社から電話がかかってきたりetc.
全て僕自身が体験したことです。
でも、働いたことのある学生なら、みな似たような体験をしているはずです。
なのに、消費者には伝わっていない。
そこで、まともな会社がないなら、自分たちでやってやろうと思いたったのが、
考動力研究会を作ることになった直接のきっかけです。
やるべきことをちゃんとやって、あるべき家庭教師の姿を実現する。
消費者が安心して選べるサービスを作り、業界全体の意識アップを図る。
それが我々の使命であり、存在価値であると考えています。
「考動力研究会」という名前
事業をはじめるにあたって、改めて「教育」を見つめなおし、
今の教育に何が必要かということを仲間と共に考えたとき、
「考える力」と「動く力」を育む姿勢であるという結論に至りました。
「考える力」という言葉自体はよく聞きますが、
しばしば漠然とした意味で使われているように感じます。
我々は、「豊かな想像力をもって、問題解決の道を模索する力」
と定義します。
というのも、自分自身が家庭教師として指導している中で、
「問題解決の道を模索」できない子が非常に多いと感じたからです
(問題解決できない、あるいは問題解決の道を「発見」できないのではなく、
それ以前に「模索」することができないのです)。
例えば、未知の問題に出会ったときにすぐ「わからない」と言い、
「もう少し考えてみてよ」と言っても、「考えてもわからない」と言います。
だけど、「○○の定理を使うんだよ」と教えると、
その定理はバッチリ覚えていて、計算自体はすぐに解けたりするんです。
僕はこれを、早い時期から塾などで、大量の問題演習を与えられるままに
こなしてきたことの弊害ではないかと考えています。
解法が頭に入っている問題はテンポ良く解くことができるが、
出会ったことのないような問題はさっさとあきらめてしまう。
試験のことだけを考えれば、これはこれで効率の良いやり方ですが、
人生で直面する大事な問題のほとんどに、解法は用意されていません。
もちろん、思考のためには知識も不可欠ですが、
情報過多の現代にあって、知識を与えられる機会は充実しているのに対し、
その知識を使いこなす練習をする機会が圧倒的に少ないのです。
一方、「動く力」とは、「思考を実行する力」であり、
「物事に主体的に取りくめる力」のことです。
この動く力は、歳を重ねるごとに弱くなっていく傾向があります。
人は概して、小さいときは「よし、やってみよう」と思えたことでも、
「ばからしい」、「めんどくさい」、「自信がない」、「恥ずかしい」
といった理由をつけて、だんだんやらなくなってしまいます。
例えば、学校の授業で手をあげる生徒の割合を見ても、
小学校が一番多く、大学ではほとんどみられなくなるのが普通です。
しかしこれには、教師側の要因もあります。
教師が「高校生にもなると授業で手をあげる生徒なんていないもんだ」と
あきらめてしまっているようでは、
生徒はますます自分から動こうとはしなくなります。
結果、極端にいえば、いわゆる「指示待ち人間」が量産されてしまうのです。
現に大学生であっても、研究テーマも自分で決められないような
「指示待ち人間」が非常に多いのが現状です。
このような状況を変えるために、今こそ、
本当の意味で「個を生かす」教育が必要であると考えており、
それが「考える力」と「動く力」を育むことだと考えています。
「考動力研究会」という名前には、
意外にもそんな熱い想いが込められているわけです。
